『6才のボクが、大人になるまで。』"Boyhood"

 

この映画の存在を知ったのは、2014年の夏。ニューヨークのSVAに短期留学中だった。街のあちこちにポスターが飾ってあって気になっていたところ、キップスベイの映画館で一本だけ無料でみれるチケットをスクールからもらったから、すぐに観に行ったのだった。しかし、一日中マンハッタンを歩き回って、作品制作を終えたあとの疲れと、言語理解能力の欠如で上映開始40分で眠りについたのは悔しい思い出。今回は改めて鑑賞した記録。








メイソンと家族の12年間


主人公は、テキサス州に住む6才の少年メイソン。キャリアップのために大学で学ぶと決めた母に従ってヒューストンに転居した彼は、そこで多感な思春期を過ごす。アラスカから戻ってきた父との再会、母の再婚、義理の父の暴力、そして初恋。周囲の環境の変化に時には耐え、時には柔軟に対応しながら、メイソンは静かに子供時代を卒業していく。やがて母は大学の教師となり、オースティン近郊に移った家族には母の新しい恋人が加わる。一方、ミュージシャンの夢をあきらめた父は保険会社に就職し、再婚してもうひとり子供を持った。12年の時が様々な変化を生み出す中、ビールの味もキスの味も失恋の苦い味も覚えたメイソンは、アート写真家という将来の夢を見つけ、母の元から巣立っていく。(公式パンフレット)




人の一生の歩み方は違えど、同じ速度で流れ続ける時間。







物語は、メイソンという1人の少年が6才から18才になるまで。しかし、当然主人公の周りいる家族も同時に描かれるところが作品をより深いものにしていたと思う。


演出面をみて私がきになったのは、ゲイっていうワードが何度か出てくること。やっぱりアメリカって国のLGBTに対する意識を感じられるし、高校生のメイソンがネイルをしているところにも、クロスジェンダー的要素を感じられた。

音楽は上映するやいなや、Coldplayのyellowが流れるから、うれしい驚きだった。Lady Gagaをはじめ、その時代のヒットチャートを組み込んだり、Apple製品の進化の過程、メイソンが遊ぶゲーム機の移り変わりの演出も、物語を光らせている。ニンテンドーのspから、wiiへの移り変わり、そして、Macのコンピュータや、ipodガラケーから、スマートフォンへ。現代の視点からみたら小道具や演出と捉えられるけれど、撮影された当時は何の演出もないリアルそのものが画面の中にある。わたしが思うに、きっとつくる側はとても楽しんで撮ったのだろうと感じる。彼らにとってこの映画は動くアルバムのようなものなんじゃないかな。



 





12年の撮影期間と、その歳月の力にもってかれるということを杞憂していたけれど、頼りきっているわけではなかった。すばらしいところ。それに加え、ヒューマンドラマならではの妙に涙をさそうような演出もなく、本当に1人の人間、そして家族が生きていた軌跡だった。ドキュメンタリーで何年もの歳月を追うっていう話は、よくある。ドキュメンタリーAmerican Teen/アメリカン・ティーンでさえ、1年をおったもの。物語として同じキャストで撮影したということが新鮮だ。




 

 

 

 

アメリカで12年すごした人はより話にはいっていけるのだろうけれど、日本で暮らす人にとっては、少しハードルの高いシーンもちらほら。イラク戦争の話題をはじめとして、オバマ大統領のシーンは、日本のティーンにおける政治感覚では考えられないものがあった。多くの日本のティーンはあそこまで政治に関心がないから。たしかに、この物語自体はごく自然な一般家庭の男の子というわけではない。しかし、やはり同じ人間、同じ時間だ。すべてが共通ということはなくても、抱える問題、これから待ち受ける問題に、少なからず誰しも自分をみるはずだ。





些細なことだが、それも自分が生きた証。

親と帰宅時間でもめること。つきあっている人のこと。学校のこと。国はちがえどいっしょのテーマは存在する。人が生きていく上で必要な成長や葛藤を等身大に描いていた。




自分の18年間からすれば、親っていう存在はいっしょにいすぎて、空気のように自然存在。だから気をつけないと、いっしょにいることが当たり前に感じてしまう。自分が生きているってことに気づいたときにはもう何年もいっしょに過ごしてきた存在だから、無意識的になるのも自然。メイソンとお母さんの関係も、2人の間に関わる人たちは、ときを追うごとに変化していくけれど、彼らは決して離れたりしなかった。おもしろいのが、作品をみている間に、メイソンと母という視点にもってかれなかったこと。あくまでメイソンの成長中心にみていた。それは、彼が特別思い悩んで、手首を切ったり、2番目の義理の父みたく、家具を破壊するような反抗期的行動をおこすシーンはみられないから、母が泣いたりするなんてことがなかったからだと思う。そういった配慮のおかげで内に秘めた感情がきれいににじみ出てきていたのだろう。

 



ここで気づくのが、この物語の視点の多さ。親と子をはじめ、それからあらゆる年齢層にベクトルは広がる。単純なことだけれど、もう子育てを終えた親とそうでない親では、物語から感じるものは違う。もし、ティーンエイジャーがこの映画をみたら、メイソンに感情移入してきっと自分の今までと、これからの将来を考えるだろう。無限の視点が存在する。

 


性格も価値観も、生きていれば変化するけれど、やっぱり1人の人間であることから逃れることはできないと気づく。どんなに拒否しようと、自分からは逃げられないし、生きている以上、だれかとつながるってことは避けられない。それをどう捉えるかが鍵になる。



自分はどう生きるのか。

 

 

 

 

時計というのはね、人間ひとりひとりの胸の中にあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るために目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしもその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。

(『モモ』ミヒャエル・エンデ作/大島かおり訳/岩波新書