森永甘酒に乳酸菌プラス?

2018年春分の日の東京は雪です。

先日の投稿で、「暖かくなってきた春には、のどごし軽めの甘酒を」などと書いたら、春分の日の今日。東京は、低気圧にみまわれて雪が降った。真昼の最低気温は2℃。

雪のため箱根では通行止め、河口湖では今季一番の大雪になったらしく、予想を裏切る日本の気候には毎年驚かされるばかりだ。

 

こんな寒い日、出先などで、どうしても暖かい甘酒を求めてしまう。実はこれを叶えるのがなかなか大変で、コンビニのホットドリンクコーナーで甘酒をみる確率はかなり低い。だからこそホットドリンクの陳列棚に赤と白のパッケージを目にしたときの喜びは大きい。そう、我らが森永甘酒である。

 

森永甘酒に乳酸菌プラス?

うちの近くのハックドラックでは、ホットドリンクコーナーに、ばっちり森永甘酒が装備されているので、降雪の帰り道に迷わず買ったのはいいが、何やらパッケージに違和感があり、みてみると、乳酸菌がプラスされていた。

 

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こちらである。ややコンパクトに見える通り、内容量は160gと通常のものよりも、30gほど少ない。

 

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通常のパッケージ

シールド乳酸菌とは?

そもそもシールド乳酸菌とはいったいなんなのか?パッケージに書いている小さな説明によると、「シールド乳酸菌はたくさんの乳酸菌の中から選び抜かれたヒト由来の乳酸菌です。」とのことらしい。

 

ヒト由来!?となってしまうが、森永乳業ホームページに説明があった

 

シールド乳酸菌®」は、森永乳業が長年の研究から発見し、保有している数千の菌株の中から、免疫力をアップさせる働きに注目して選ばれた人由来の乳酸菌です。サプリメントなどの健康食品だけでなく、ヨーグルトや味噌汁など生活に身近な食品でも利用できる乳酸菌です。

 

他にも、インフルエンザ予防になるなど、ありがたい効能付き。30g減ったけれど、こういったおまけがあったようだ。

味の違いはあるか?

肝心の味や舌触りは、気持ち大事に飲んでしまって構えたのだが、びっくりするほど変わらないのでした。シールド乳酸菌に免疫力UPのご利益を得たいときは飲んでみてもいいのかもしれないが、ごくごくいきたいときは、私は普通のを選ぶだろう。

 

 

 

 

 

保存保存

榮太棲×獺祭の和菓子屋が作った甘酒とは? 

春の暖かさに、ぴったりの甘酒を考えてみる

「甘酒が好き」という意見の好きは一絡げにすることはできない。風味が好きな層もいれば、舌触りを楽しむことが好きな層もいるからだ。今では単純に美容効果を目的としている層も増えている。

 

久しぶりに行ったマミーマートのレジ前には甘酒コーナーがあり、そこでみつけた榮太棲本舗の甘酒をうっかり衝動買いしてしまったので、調べてみた。

 

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榮太樓 和菓子屋のあま酒 榮太樓×獺祭 770g

 

都内をみても、かなりの数の居酒屋でおかれている人気の日本酒 「純米大吟醸 獺祭」の酒粕を使用しているという。榮太棲×獺祭のコラボが売りのようだ。

770g 1,080円だった。

 

この榮太棲本舗の甘酒は、風味は上品で、落ち着きがあり、マットな半透明な瓶とパッケージから抱くイメージを裏切らない。商品説明に豊な甘みとコクと書いてあったが、私はそれほど、これらの印象を強く受けなかった。それよりも、「口当たりなめらか」であることや香りの方を重視している方が納得しやすい。

 

私は最近のコンビニで見かける甘酒は、とにかく酒粕の存在がどこかへ飛んでしまって、甘酒風味ウォーターになってしまっていると感じているから、やはり、こういった770mlで1000円以上払っても、しっかりした作りのものは満足させてくれる。

私は冬には舌触りがいくら重くてもいいと思う。酒粕のあの、ひっかかる舌触りはどこか、モヘアや羽毛といった冬の防寒を感じさせるし、季節にあっている。夏に飲むときは、少し薄めるとか、工夫がいる。

 

そういったことを考えると、暖かくなるこの季節には、少し舌触り軽く、のみやすい、甘酒もいいのかもしれない。きっと、桜餅や御手洗団子といった、重ための春和菓子にも相性がいいだろう。

「あさイチ」で受動喫煙で感じた喫煙犯罪時代

喫煙者はどこへ行けば許される?

今日、3月19日の8:15~あさイチのテーマは「受動喫煙」だった。

まずはじめに、私は喫煙者であるから、こういった記事や報道をみるたびに少し胸が痛むし、少し喫煙者の肩をもってしまいがちなことを謝っておきたい。

 

今回番組内では「推計で年間1万5千人の人が受動喫煙によって亡くなっている」というパワーワードや、視聴者からのコメントでもあったが、本当にニュースなどで報道されるいわゆる犯罪者の報道の形式に似たものがあった。「こわーい」や「ひどーい」といった言葉が、スタジオ内の出演者から漏れた言葉からもイメージできた。

化学物質過敏症になった女性や、マンションの下の階のベランダからの煙によるトラブルなど、とにかく受動喫煙による現状の被害報告が目立つ内容だった。「かわいそうな受動喫煙者」という表現は伝える上で仕方ないのかもしれないが、少々過度であったように私は感じた。

番組をみていない人は、下のURLからあらすじをみてもらいたい。

 

喫煙者は許しを受けるには?

ここまで報道されると、「まるで犯罪者」というよりも、いっそのこと犯罪者としてもらった方が、潔いとすら感じてしまう。ここで、喫煙者が許されるにはどうすればいいのか?真っ先に「分煙」ということが考えられるが、分煙の始まりを調べて見ると、

 

「分煙」という語彙のメディア初出は、1985年3月17日朝日新聞「座標」欄「“たばこ戦争”新時代 煙に「指定席」必要 論説委員大熊由紀子」であった。

上の通り、85年か30年近く行われているが、現在も解決にいたっているとは言えないのだろう。分煙したところで、化学物質は衣服や口内についてまわるようなので受動喫煙完全防止とはいかない。このままだと、この先「タバコを吸った後は会話禁止令」などがでてきてもおかしくはない。

 

いろいろな法律規制がタバコをとりまいているが、この受動喫煙問題について悩むことによって生じる言いようがないストレスはもはや健康に悪影響ではないだろうか。受動喫煙が原因によって亡くなった方がいるのは少なくとも事実であるが、このまま進むと、いずれ喫煙者が分煙ストレスで亡くなる時代も起こりうる。

 

中央線で中野駅でとまったとき、いつも歩道橋下の檻の中のような空間で吸っているサラリーマンたちが目に入り思う「そこで吸って本当においしい?」って。みんなで許しあい、受け入れあえるギリギリのラインを見つられたらいい。

わかってほしい。この世界に生まれた以上、そもそも100%安全な世界などないのだから。

 

 

matomedane.jp

www1.nhk.or.jp

「SNS」を端的に説明することを試みよう

パーソナリティを知っていて、パブリックを知らない世界

 

SNSはどんな世界かということを説明することを試みよう。

SNSでは人のパーソナリティを知ることができる。その人の個性や、いま何をしているのか、何が好きであるのか。写真、動画、文字によって私的でパーソナルな部分を垣間見ることができる。

SNSの世界でつながっているけれど、本名は知らない人や、電話番号を知らない人が増えた。LINE電話機能はある(友人付き合いでもほとんどこれを利用している)が、これも厳密にはSNSである。

 

ビジネス的な世界はきっとこれの反対で、その人が何が好きで、昨日どんなことを考えているか、といったパーソナルな部分を知る以前に、名刺交換によって住所や電話番号を知っていることがある。

SNSでは、お互いに会話し親密になっていても、職場や、住所、出身地といった、パブリックなその人の世界を知るまでに時間がかかるだろう。

 

個性から公を知るのがSNSだろう。

 

SNS本名も、住所も、電話番号も知らないけれど、その人が好きなものや、昨日どこで何をしていたかは知っているという、当たり前なことであるが、不思議な環境ではないだろうか。これは奇異的ということではなく、ユニークであるということだ。数十年前までは、ストーカーにしか成しえなかったことが誰にでもできる世界が急速に成長し、確かなものになった。

 

『道をひらく』

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書名:道をひらく ( 英題: The Path  )

著者:松下幸之助

発行者:佐藤悌二郎

発行所:株式会社PHP研究所

1968年5月1日発行

 

 

 

2018年3月17日(土)が私の大学の卒業式だった。

その前日に、四国の実家から前乗りしていた母から、吉祥寺のホテルでもらったのが「道をひらく」である。チェックインまでの時間、伊勢丹に行くことにした。その途中2人で新宿の紀伊国屋書店前をとおりかかったとき、売れ筋コーナーにあったこの本を見つけてしまったらしく、「売れ筋」というものをプレゼントすることに少しショックを受けていた。

 

母が私にくれたのはリバーシブルカバー装丁で、表はいわゆる「おしゃれ」としての、パターンが描かれていて、裏は従来のトリコロールカラーの装丁だった。(固苦しさはあるが、飾り気がなくて私は好感をもった。)松下幸之助氏の随想集ということもあり、堅苦しさは感じられなかった。童話屋の装丁に似た印象もあり、詩集を読んでいる感覚にもさられる。

 

1968年5月1日初版のこの本は、この世に生まれて50年ほど。これを書いた松下幸之助氏は1894年生まれ。おそらく74歳の頃にお書きになったはずだ。それを2018年春に私は初めて手に取った。それだけで長い時間の存在を思い知ると同時に、22歳というあまりに小さい私の時間の存在に気づく。 

 

これで卒業式というイベントは、おそらく私の人生でこれで最後であると思う。 

毎度のように、えらい人の話は長く、式の会場のこもった空間に少しにぶったマイクの音が響く。外に出たら、談笑もほどほどに、みな写真をとることにあくせくしていた。卒業式というイベントを終えてみて、私のこれまでは道がつづいているというよりは、似たような形式環境をリピートしている感覚である。私は就職というものをしないけど、おそらく就職する人はこのリピートを感じるんだろう。人が集まるということは、こういうことなのかもしれない。個人で自分自身をみる目をもったとき、はじめて「道」ができるのだろう。